【吟遊漫録】
いつか俳画を
伊藤 左知子
以前より俳画、画賛に興味があり、自分でも描いてみたいと思っていたが、絵も書も素養がない。ただ、渡辺崋山が『俳画譜』の中で、俳画はどのように描けばいいかについて、次のように述べている。
「すべておもしろくかく気あしく、なるたけあしく描くべし。これを人にたとえ候に世事かしこくぬけめなく立振舞物のいひざまよしきハあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流に見え候通、この按排を御呑込あるべし」
つまり、俳画はおもしろく描こうとせず、なるべく下手に描くべきである。人に例えるなら、賢く抜け目なく、隙の無い人は面白くなく、世の中の事に疎く素朴に話すような人の方が風流に見えるものである。俳画もこの按排で描くのがいいというわけである。
下手でいいなら、私でも描けそう。と思いきや、崋山の画賛、半端なく上手いのである。例えば、《蔦の香のいふだつかたになまぐさし》に描かれた従者を連れた騎乗の旅人の飛ばされる傘のリアリティ、《朝顔のふてのかくさえあはれなり》に添えられた朝顔の淡い青の優美さ、こんなもの素人には描けません。要するに、崋山の俳画指南には、「画人としての心得がある上で」という前書きが暗黙の了解で含まれているわけである。ちなみに「崋山、俳画」でネット検索するとこれらの俳画を見つけることができる。他もしかり。
とはいえ、俳画の楽しみは絵の良し悪しだけではない。俳句と絵の取り合わせも腕の見せ所だ。与謝蕪村は、俳句に書かれていることをそのまま絵に描くのは、「句のあはれ」が失われてよくないと弟子に教えている。何を描くかという題材もまた工夫のしどころというわけである。
この取り合わせの面白さといえば、まさに蕪村の《ばけそうな傘借す寺のしぐれかな》の俳画がある。「ばけそうな」と「借す」の間に傘が描かれている。絵と文字を合わせて《ばけそうな傘借す寺のしぐれかな》が完成する。今にも化けそうな傘の絵が面白い。
傘の絵といえば、芥川龍之介の俳画《時雨るゝや堀江の茶屋に客ひとり》に描かれたから傘も印象的である。俳句に傘は出てこないが、素朴な傘の絵のおかげで、句の世界が広がり、湿った匂いまでしてきそうだ。この俳画、蕪村の俳画へのオマージュのようにも取れるが、芥川は蕪村をあまり評価していなかったとか。実は自分に似ているからではないかと、俳画から感じ取ることもできる。
面白いといえば、小林一茶の自画自賛。一茶の俳画には、ぽつりと一茶自身が描かれているものが多い。《目出度さはことしの蚊にも喰われけり》、《冬ごもりあくもの喰ひのつのりけり》。どちらの俳画にも横向きの一茶がいる。落款に「人も一茶」とわざわざあるのが、なんとも飄々としている。一見、可愛らしいが、一茶の生涯を思うと、自身の孤独を茶化しているようで、少し切ない。
すでに芥川龍之介を取り上げたが、近代以降にも俳画を残した俳人は多い。
正岡子規は幼少時から絵を習っていたようで、南画様式の俳画はどれも美しい。ただ、個人的にはきれい過ぎてちょっとつまらない気もするが、中には面白いものもあるはずだ。何しろ多作な人だから。
子規のお友だちの夏目漱石の俳画は、いかにも夏目漱石である。がんばりすぎていたり、理が勝っていたり、どちらにしてもザ・漱石といった感じがする。
いかにも近代的なのは竹久夢二の俳画だ。《庭石にぬれてちる灯や星まつり》、《鳥渡る尖りし山をくれ残し》どちらにも夢二らしい女性が描かれている。俳画というよりポスターとかイラストレーションの域であるようにも思う。縮小して栞にしたい類である。
他にも小川芋銭、渡辺水巴などなど、挙げればキリがない。さらに探ってみたいところだ。
現代の俳画も興味があるが、それはもう江戸時代、近代に習わなくてもいいかもしれない。例えば、写真俳句などは、現代俳画の一種といえるだろう。模索すれば、いつかは私も俳画を描けるかもしれない。
参考 『俳画粋伝』瀬木慎一著 美術公論社
参考 特別展「俳画~Enjoy HAIGA~」解説シート
※俳句同人誌「ペガサス」第15号(2022年12月号)より転載
雑考つれづれ
原民喜の俳句③ 東國人
中国大陸での戦争が、泥沼化し長期化する中で一九四一(昭和十六)年十二月八日、日本海軍が、アメリカのハワイ真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。最初、日本軍は破竹の勢いで進撃し、連戦連勝を重ねる。一九四二(昭和十七)年六月五日、ミッドウェー海戦で、空母四隻を失うまでは。
その一九四二(昭和十七)年、原民喜に転機が訪れる。この年の一月から、船橋市立船橋中学校(現千葉県立船橋高等学校)の嘱託講師として、週三回、英語の授業を持つことになったのである。結婚以来はじめて職についたのである。それまでは、実家の原商店の株の配当などで生活を営んでいたのだが、戦争の長期化により、国内のインフレが進行し生活が厳しくなり、さらに、妻の長い入院により入院費がかさんできたからである。しかし、戦時下での英語教師というものは、とかく白い目で見られがちな職業であり、原民喜も中学校では、肩身の狭い思いをしつつ、教鞭をとっていたと想像される。
昭和十七年
教室の窓にうるほふ田植歌 杞憂
教室の外から、田植えの歌が響いてくる。そこには平和でのどかな田園風景が広がっている。日本が戦争をしているということを忘れさせてくれるような風景である。それを、民喜は「うるほふ」という温かい言葉で表現した。慣れない中学校の教員生活において、窓の外の田園風景は、民喜の心に安らぎを与えてくれていたのであろう。
動きゐる船虫に視入り心細る 杞憂
海辺の岩場などで船虫は見られる。そして、船虫は何匹、何十匹といてもぞもぞと蠢いている。その蠢く姿は、何かぞっとするような姿でもある。その姿を見て、民喜の心はとにかく滅入ってくる。「心細る」のである。これは校内を騒ぎ回る中学生の姿を心に思い浮かべたからではないだろうか。寡黙な民喜にとって、威勢のいい騒々しい生徒達の言動はその神経を消耗させていったにちがいない。
軒毎に砂囊ある路春立ちぬ 杞憂
また、当時の世の中の様子を物語る句もある。各家ごとにその軒下に空襲などに備えた砂囊が置かれている。今まさに戦争真っ只中。立春を迎えたが、まだ、寒さの残る路に、まさに身近なところに戦争は転がっているのである。
常に神経をすり減らす教員生活や戦争の足音が自分の身近に迫っていることに疲れていた民喜にとって、妻貞恵のいる病院にいる時間が至福の一時であった。心安らぐ一時であったことだろう。
一九四三(昭和十八)年に入り、太平洋戦争も、日米の国力の差が次第に出始め、戦況は悪化していった。二月には、南太平洋のガダルカナル島より撤退。四月十八日、連合艦隊司令長官山本五十六が、前線視察の途中、ブーゲンビル島上空で戦死。五月二十九日には、北太平洋のアッツ島の守備隊が、「玉砕」という美名のもと全滅している。
発病以来、一進一退であった妻貞恵の病状は、この年から次第に悪化していった。民喜は、相変わらず船橋中学校で神経をすり減らしながら、教壇に立っていた。この年の作品は、戦争という状況下、「望郷」という一作品のみであった。しかし、句作は続けていたようで、「杞憂句集 その二」には、この年の句が二十七句収められている。
昭和十八年
こほろぎのこゑのかぎりをひとりきけよ 杞憂
残燈に我が秋魂は滅ぶなし
「所懐二句」と題された句である。
最初の句、すべてひらがな表記の句である。寡黙な民喜の悶々とした心情を、「こほろぎのこゑ」に託している句のように感じられる。長期化する戦争に、慣れない教員生活、次第に悪化していく妻の病状と鬱屈した日常の中、命をかけ鳴き続ける「こほろぎ」は、民喜の姿そのものではないだろうか。
次の句は、自ら、今置かれた現実を受け止めようとする民喜の決意の表明のような感じられる。「残燈」は、死に向かいつつある妻の象徴であり、その現実の中で、自分はそれを真正面から受け止めようとする心の叫びである。
凩の女顴骨尖りたる 杞憂
凩吹き荒ぶ中を急ぎいく女の頬骨が、痩せて鋭く尖っている。戦時下の食糧難の時代、人々は痩せていた。その尖りに民喜の目は釘付けになった。そこには、痩せ細りゆく妻の姿がダブっていたのであろう。
入院患者の顔となりたる妻の羽織 杞憂
無季の句である。ただ、この時期の民喜と妻貞恵の様子を物語るような句である。場所は病院か家か定かではないが、以前元気な時に来ていた羽織までもが、ふと気が付くといつの間にか、「入院患者」の顔のようになっていた。そのように見えてきたのである。妻の病状の悪化が、民喜の心理を通してそのように捉えさせたのだろう。
一九四四(昭和十九)年に入り、戦況はいよいよ日本にとって厳しいものになっていく。一月には、インパール作戦が実施され、死者三万人余を出した。六月には米軍がサイパン島に上陸。七月十八日には、日本を太平洋戦争の開戦に導いた東条内閣が総辞職。そして、十一月二十四日、マリアナ基地より飛び立ったB29が東京初空襲。以後、B29による空襲が本格化し、日本各地が空襲の脅威にさらされるようになっていく。
民喜は三月、二年間勤めた船橋中学校を退職し、記録映画の脚本や製作を手掛けていた長光太の紹介で、朝日映画社の脚本課嘱託となり、週に一、二度東京まで出掛けていった。仕事という仕事もなく、与えられた仕事は、差し当たって書物を読み漁ることだけだった。教員生活から解放された民喜は、さぞ幸福だったであろう。
その頃、妻貞恵は自宅で療養生活を送っていた。ほとんど寝たきりの生活で、次第に死へのカウントダウンが始まっていく。
昭和十九年
きびしき春を山吹の茎青みゆく 杞憂
この句は、単なる写生の句のように思えるが、その奥には、民喜の心象が投影されいるように感じられる。句自体は、早春のまだまだ厳しい寒さが残る頃、山吹の茎の部分が次第に青みを帯び、清明の息吹が少しずつ感じられてくる。春の到来に喜びを強く感じている作者の姿ある。たぶん、中学校を退職し、解放された民喜の心象であろう。「季重なり」の句であるが、「山吹の茎」が主で、「きびしき春」が従の季語の関係であり、この場合は問題ないのではないかと思う。
砂冷えてしづかに曇る天の河 杞憂
貞恵の病状は夏に入りさらに悪化し、死へと近づいていく。そして、いよいよいつ死が訪れてもおかしくない厳しいものとなっていった。その状況を物語るような句である。昼間暑かった砂も、夜になり、熱を失い、天にかかる天の河も徐々に曇っていく。命尽きようとする貞恵の病状をしずかに曇りゆく天の川に喩えて詠み切った句ではなかろうか。
熱にうるむ目の色かなし秋の夢 杞憂
危篤の貞恵の姿を詠み込んだ句か。死を間近に熱にうなされている妻の目の色が、民喜には「かなし」いものに見えている。最愛の妻を今失おうとしている民喜の心情は、いかばかりであっただろうか。
そして、九月二十八日、妻貞恵は肺結核と糖尿病のため死去。享年三十三。
われもかう悲しき花と刻みをく 杞憂
妻に先立たれたその悲しみを、民喜はこう詠んだ。「われもかう」の可憐な清楚な花も、民喜の心には単に「悲しき花」としか映らない。そして、その死という事実を客観的にに受け止め、その悲しさを強く胸に刻もうとする姿がある。
声澄みて雨夜のこほろぎなほ悲し 杞憂
この句も、妻の死を悲しむ民喜の心情が吐露されている句である。澄んだ声で鳴くこほろぎも、普段であれば、美しく感じられるのだろうが、妻を失って失意の中にいる民喜にとって、その声は「悲し」いものでしかない。まして、雨の夜。その寂しさは計り知れないものがある。
心呆け落葉のすがた眼にあふる 杞憂
妻貞恵は、民喜にとってはすべてを依存するほどの存在であり、心のよりどころであった。それを失ったのだから、その喪失感は並大抵のものではなかったであろう。目の前にはらはらと散りゆく落葉、その姿は、今までの二人の生活が消えてゆくそれを落葉で表現したのであろう。
こうして、妻貞恵は亡くなり、民喜はたった一人取り残された。精神的支柱を失い、民喜の心はぽっかりと大きな穴が開いたような空虚な状態になってしまった。全てを喪失したような空虚感が心の中を支配していた。
一九四五(昭和二十)年、一月三十一日、千葉登戸の家を引き払い、広島の実家に戻る。そして、運命の八月六日を迎えるのである。
(次号へ)
※俳句同人誌「ペガサス」第15号(2022年12月号)より転載
※「原民喜の俳句」はこちらから読めます→「雑考つれづれ」