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by pegasus2018

柿本多映の世界ー原風景と表現ー

雑考つれづれ

  

柿本多映の世界   ‐原風景と表現       羽村 美和子


 平成276月、第39回現代俳句講座において、柿本多映氏の講演を聴く幸せを得た。


 テーマは「橋閒石の周辺」。俳句に見る閒石の心情や信条、それに対する多映氏の思いを、エピソードを交えながら話された。講演を通して見えてくる、多映氏の俳句やその姿勢の一端に触れてみたい。


  母の背に匂ふ焼け野は暗かりき  橋閒石『雪』

  雪降れり沼底よりも雪降れり   

 

 金沢、雪、母は閒石の原風景であり、閒石自身も原風景の地場からは逃れられないと述べていたとのこと。また永田耕衣も、原風景の中の哀しい経験は、生きる哀しさであり、俳句を書くことで、自他が救済されると述べていると話された。 

 

 かつて私が通った俳句教室のテキスト「諸家五十句」に、多映氏の『夢谷』『蝶日』からの50句があった。


国原の鬼と並びてかき氷      『夢谷』

枯芦の沈む沈むと喚びをり      〃

出入口照らされてゐる桜かな     〃

回廊の終りは烏揚羽かな      『蝶日』 

誰か来て石投げ入れよ冬の家     〃

我が母をいぢめて兄は戦争へ     〃

広島に入りて影濃き日傘かな     〃


 当時初学の私でさえ、体に電流が走った。多映氏の出自である三井寺には及ぶべくもないが、私の原風景とも重なる句がたくさんあった。自然や家屋のふとした明るみや暗がりに、小動物や昆虫、そして神も鬼もいる。しかもそれを写生ではなく、一度抑えたメタファーとして表現されている分、経験から来るいろいろな景が浮かび、鳥肌の立つ思いがしたのを今も覚えている。掲句前半は、自然と共に生きる時に感じる、喜びや哀しみ或いは畏怖の念である。掲句の後半<回廊の><誰か来て>の句は、復刻版『夢谷』に、

 

 唯一広い境内で出会う小動物や昆虫、或いは不思議な樹や花は格好の遊び相手だった。勿論蛇や蜥蜴もお友達の範疇にあったのだ。その頃の私は無意識のうちに、自分が兄達とは違う異なる立場にあることを感じとっていたのかも知れない。この自然との戯れはその心の隙を埋める必然的な行為でもあったのだろう。


 とあるように、<>の哀しさ。男系社会の中で自らの居場所を探す哀しさ。<我が母を><広島に>には、戦中戦後を生きる人の哀しみがある。それらは、永田耕衣の言う「生きる哀しさ」そのものである。


淡水へはらわた返す泳ぎ去れと 橋閒石『無刻』

階段がなくて海鼠の日暮れかな   『和栲』

銀河系のとある酒場のヒヤシンス  『微光』


 掲句一句目は、閒石が旧派から抜けだそうとしていた頃の句で、哀しみの句として褒めた耕衣は、意味ではなくまず感じることが大切だと言ったという。二句目は多映氏が大好きな句で、閒石そのものの心象句とのこと。三句目は「白燕」の句会終了後の、俳句談議の様子で、閒石の句でも平気で批判する自由さ平等さは、同人誌の良さだと述べられた。これらは閒石の紹介であり、多映氏の俳句に対する思いでもある。


 俳句を書くことは、「一つの実存の核から無限にひろがる虚の世界へと思念を一歩踏み入れる結果ともなる」(『時の襞から』)と述べておられる。


瞑れば花野は蝶の骸なる      『夢谷』

人体に蝶のあつまる涅槃かな    『蝶日』

洞の木や蝶の骨など重なりて    『花石』

このゆふべ柩は蝶に喰われけり   『白體』

岸までは聞こえる蝶の翅づかい   『粛祭』


弱々しい<翅づかい>の音、体調を崩された時のものだろう。『粛祭』には<手術始まる蒼馬に月を奉り>など入院された時の句も見られる。しかし今は喝采の<カーテンコール>。ご自身を労りつつ、これでよしとの思いなのだろう。<凍蝶>は、虚の世界にありながら、<カーテンコール響くなり>の措辞により、現からも影が見えるような気配だ。


穴を掘る音が椿のうしろから    『花石』

椿の夜白衣の人の通り過ぐ     『白體』

内視鏡淵の椿の溢れ溢れ       〃

約束が違ふ鏡の間の椿        〃


 椿の句もかなりあり、印象深い。不気味さに、人は意外にも惹かれる。掲句一句目、昼とも夜とも書かれていないが、夜のイメージだ。この景からは何も見えない。辛うじて見えるとすれば、<椿>と言うよりも花も含めて椿の木。それが<穴を掘る>人を隠し、<>だけが聞こえる。二句目は、<椿の夜>のイメージ。<白衣の人>とは、死装束の人か。三句目は、<内視鏡>で検査をしているときの心象。不安の象徴としての<椿>。四句目は、<約束が違ふ>のは、この<椿><鏡の>中の<椿>、即ち虚像であるからだ。虚像は虚像を呼び、作者を嘲笑っているかのようだ。<椿>には、奈落の底に人を引き込んでしまいそうな妖気がある。


 <夜なれば椿の霊を真似歩く 永田耕衣>を引いた興味深いエッセイがある。


 ……あの頃の直感的な不安。それは多分、椿の霊に呑み込まれそうな体感をしたからではなかろうか。あるいは今、この私が、それを実感しているからかも知れない。耕衣氏の句は、諧謔的自我の表出であろう。存在即エロチシズムと言う耕衣翁なればこそ、即、椿の霊となって椿を連れ歩くことが可能なのだ。(『季の時空へ』)


 蝶しかり、椿しかり、原風景のとりわけ哀しさや不安や畏敬の念を、陰陽師よろしく自在に操り、詩の言葉にされる。だが、それは簡単ではない。一旦自分の内面に取り込まなければ出来ない。虚と実の世界を往き来する心の表出は、一方で、自分を見ている自分も見えてくる。以前、「季語の前にあるものは自然で、自然との関わりを体で引き受けているか、生も死もみな受け入れ、感じることが大切」と多映氏より直接伺ったことも思い出される。


起きよ影かの広島の石段の      『仮生』


 掲句は、五十年経って出来た句と、講演で話され、会場がどよめいた。広島に原爆が落ちた時、爆心地近くの銀行の石段に座っていた人の影である。熱線で周囲の石は白くなり、人を通した熱線は人の影を黒々と残した。多映氏もそれを後に見られたのだ。まずは感じたことを言葉にしておいて、いつもあれこれ考えているうちに、ある日、影と石の間に霊を感じた、認識したとのこと。認識から生まれた句なので、写生ではない。違う刺激を受けて俳句が出来るとも言われた。非日常を感じとる感性、認識の鋭さに圧倒される。


送り人は美男がよろし鳥雲に     『仮生』

山姥は山に向かひておーいお茶     〃

魂魄はスカイツリーにいるらしい    〃

川内原発・本格芋焼酎有り(マス)  「連衆」71


 掲句一句目二句目、俳諧味たっぷりの句である。時流をうまく捉えておられる。三句目もやはり現代である。場所は、東京大空襲の中心の地、その<魂魄>であろう。谷口慎也氏は「連衆」で、「<魂魄><スカイツリー>にまでもっていく感覚の斬新さ」と述べておられる。


 四句目は、多映氏がその手の内を話して下さった。年毎に俳句に対する考えの違いがあり、今までとは違う方法でと、一句のために毎日あれこれ考えている。テレビのコマーシャルで、「本格芋焼酎有ります」とやっていた。芋は燃料にもなり、芋づるは食料だった戦時中の体験と重なり、<川内原発>とも重なったということだ。<(マス)>の表記は昔文字が読めない人のためにあったということだ。単に時流に乗るのではなく、原風景の中で認識されたものと、眼前の新しい景とをぶつけ、表現の時空を広げておられることに感動する。


 川名大氏の『俳句は文学でありたい』の中に、「重層的な構造を持つ俳句は、象徴と寓意のはざまに表現すべき豊饒な世界がある。それらを表現するには、目に見えない世界を摑む才能が必要だ」という一節がある。正に多映氏の俳句がそうであると確信する。


 「蝶」のところで触れたが、原風景を基に表出される心象の風景も少し変化して来ている。ベースは絵巻のような世界で、過去から浮遊してくる魂を感じる。近頃は、広い時空を創り上げながら、軸足を現在に置き、過去や未来に浮遊する魂が加わった感がある。


 服部土芳の『三冊子』に、「…新しみはつねに責むるがゆゑに、一歩自然にすすむ地より顕るるなり」と芭蕉も新しみ即ち独創性を求めて、痩せる思いだった様子が記されている。自身の詩精神を鍛え育てることの重要性である。閒石や多映氏の姿勢と重なる。


真夏日の鳥は骨まで見せて飛ぶ   『夢谷』


 心身共に傷つきながら<骨まで見せて>ひたすら<飛ぶ>鳥は、柿本多映氏そのものだ。


(平成27年「連衆」72号掲載の文章に加筆)


※「ペガサス」第12号(2021年12月号)より転載




by pegasus2018 | 2022-08-02 11:09 | 雑考つれづれ(評論) | Comments(0)